
人生足跡・・・青春期・・・(11)世間ではオリンピック・・・私の心は暗かった!
|Posted:2012/10/21 13:23|Category : 人生足跡|
突然母が上京、オリンピック見学とか、理由付けは後々悟るのだが!
入場券2枚、1枚目は私の好きなバスケット、そして母親の大好きな水泳競技の入場券携えて居た。
保険の外交員で頑張る母親、前々から購入していたとか、開催入場券は買えなかったがと謝って居る。
目的はオリンピックでは無さそう、理由付けての上京と分かる、下宿先の家賃滞納、生活の困窮等、
母親の目で確かめ様との思いか、親父にはオリンピック見学と言ってるらしい。
取りあえずオリンピック見学、母親と代々木まで行くのだが、会場は別々、あまり感動した記憶も無い。
その後の滞在は、まず部屋の掃除、洗濯物の片付け、一番のプレゼントが滞納していた下宿代の清算。
久しぶりの味噌汁の味、ついでに炊飯器まで買ってくれる、この5日間、上京して以来最高の日々に成る。
東京駅で母親を見送り、そのまま一緒に帰奈したいと、故郷への望郷が涙と共に鮮明に想い出された。
それまで故郷へは帰りたいとも思わなかったが、この時ばかりは何故だろう、母は強し、優しすぎた。
色々な、出来事の多かった学生時代、故郷へ寄りつかない私にせめてもの気持を携えての上京なのか、
母親が帰奈した頃から、塞ぎ込む事の多い日々、深夜遅くまで酒を浴び、身も心も荒れて行く。
学友との名目コンパの連ちゃんと、近場の居酒屋で連夜遅くまで一人酒を飲む事も多くなる。
飲めば絡み酒、連夜の深酒で風邪も引き易い、後々肺と肝臓を患う事に、この頃まだ悟って居ない。
その頃からか、行きつけの店も数多く増え、その中でも唯つ身体を癒せる店が有る。
戸塚交差点の2軒目に「緑園」なる喫茶、ここが私の居場所、何時しか縄張りに成って居た。
この喫茶は終日営業、パチンコの途中休憩もこの場を、バイトの無い頃はここでも寝る。
米が切れれば、モーニングから昼食、夜食までこの喫茶、支払い出来ねばツケで有る。
ここのマスター台湾人、店でのトラブル結構有るが私が仲介に入り、もめ事なんぞは起こさせない。
私の気性は熟知の上、金が無くとも気長にツケを許して呉れた、毎日伝票は溜まって行くが感謝で有る。
パチンコで稼ぐ私、何時しか下宿の同輩達、腹が減ればここで済ます事も、勿論私のツケで有る。
卒業まで続くこの喫茶、何時しかこの席は私の指定席、込んでいても誰もこの席に座ら無い、座らせ無い!
パチンコの腕も上げ、半ばパチプロ、稼ぎは半端で無い、パチンコは何時も長靴、晴れでもスタイル同じ。
立ち通しのパチンコは足が疲れ下駄では無理、何時しかこのスタイル、皆が認める私のファッション。
次第に従業員とも仲良くなり、玉詰まりでいちいち台を開かずとも、従業員専用の針金を預かる事に、
詰まった玉を引き出すのは、この針金を小さな穴に差し込み後ろのバネガを押し簡単に治すので有る。
当初は難癖を付け台を叩く、蹴る、ついでにガラスも割る、手に負えないが、従業員私には手も出せない。
私の周囲は兵ばかり、パチンコ店の店長代わっても私には関係ない、そんな事でこの道具を与えられる。
銭湯に行くと店員とも良く顔を合わす、夜は彼らを引き連れ赤ちょうちんで酒を奢る。
飲んだ勢いで、釘師の情報を盗み聞きする事も、御蔭で結構打ち止め、連日連夜稼ぐので有る。
定休日には我が下宿を尋ねて来る者まで居た、今の時代では考えられない。
気風の良いのが私、金が無ければ貸してやる、無ければどうにかして稼ぐ、こんな時期が結構長く事に。
当時のパチンコは現金では貰えない、すべてタバコと交換、こいつを現金に換えるのだ!
喫茶店はツケと相殺、路地裏のスナックのマスター達に、他より高く買って貰い生活費にも充て込んだ。
何時しか童顔の学生らしさも消えうせ、高田の馬場の街角で、肩で風切る私が居た。
入場券2枚、1枚目は私の好きなバスケット、そして母親の大好きな水泳競技の入場券携えて居た。
保険の外交員で頑張る母親、前々から購入していたとか、開催入場券は買えなかったがと謝って居る。
目的はオリンピックでは無さそう、理由付けての上京と分かる、下宿先の家賃滞納、生活の困窮等、
母親の目で確かめ様との思いか、親父にはオリンピック見学と言ってるらしい。
取りあえずオリンピック見学、母親と代々木まで行くのだが、会場は別々、あまり感動した記憶も無い。
その後の滞在は、まず部屋の掃除、洗濯物の片付け、一番のプレゼントが滞納していた下宿代の清算。
久しぶりの味噌汁の味、ついでに炊飯器まで買ってくれる、この5日間、上京して以来最高の日々に成る。
東京駅で母親を見送り、そのまま一緒に帰奈したいと、故郷への望郷が涙と共に鮮明に想い出された。
それまで故郷へは帰りたいとも思わなかったが、この時ばかりは何故だろう、母は強し、優しすぎた。
色々な、出来事の多かった学生時代、故郷へ寄りつかない私にせめてもの気持を携えての上京なのか、
母親が帰奈した頃から、塞ぎ込む事の多い日々、深夜遅くまで酒を浴び、身も心も荒れて行く。
学友との名目コンパの連ちゃんと、近場の居酒屋で連夜遅くまで一人酒を飲む事も多くなる。
飲めば絡み酒、連夜の深酒で風邪も引き易い、後々肺と肝臓を患う事に、この頃まだ悟って居ない。
その頃からか、行きつけの店も数多く増え、その中でも唯つ身体を癒せる店が有る。
戸塚交差点の2軒目に「緑園」なる喫茶、ここが私の居場所、何時しか縄張りに成って居た。
この喫茶は終日営業、パチンコの途中休憩もこの場を、バイトの無い頃はここでも寝る。
米が切れれば、モーニングから昼食、夜食までこの喫茶、支払い出来ねばツケで有る。
ここのマスター台湾人、店でのトラブル結構有るが私が仲介に入り、もめ事なんぞは起こさせない。
私の気性は熟知の上、金が無くとも気長にツケを許して呉れた、毎日伝票は溜まって行くが感謝で有る。
パチンコで稼ぐ私、何時しか下宿の同輩達、腹が減ればここで済ます事も、勿論私のツケで有る。
卒業まで続くこの喫茶、何時しかこの席は私の指定席、込んでいても誰もこの席に座ら無い、座らせ無い!
パチンコの腕も上げ、半ばパチプロ、稼ぎは半端で無い、パチンコは何時も長靴、晴れでもスタイル同じ。
立ち通しのパチンコは足が疲れ下駄では無理、何時しかこのスタイル、皆が認める私のファッション。
次第に従業員とも仲良くなり、玉詰まりでいちいち台を開かずとも、従業員専用の針金を預かる事に、
詰まった玉を引き出すのは、この針金を小さな穴に差し込み後ろのバネガを押し簡単に治すので有る。
当初は難癖を付け台を叩く、蹴る、ついでにガラスも割る、手に負えないが、従業員私には手も出せない。
私の周囲は兵ばかり、パチンコ店の店長代わっても私には関係ない、そんな事でこの道具を与えられる。
銭湯に行くと店員とも良く顔を合わす、夜は彼らを引き連れ赤ちょうちんで酒を奢る。
飲んだ勢いで、釘師の情報を盗み聞きする事も、御蔭で結構打ち止め、連日連夜稼ぐので有る。
定休日には我が下宿を尋ねて来る者まで居た、今の時代では考えられない。
気風の良いのが私、金が無ければ貸してやる、無ければどうにかして稼ぐ、こんな時期が結構長く事に。
当時のパチンコは現金では貰えない、すべてタバコと交換、こいつを現金に換えるのだ!
喫茶店はツケと相殺、路地裏のスナックのマスター達に、他より高く買って貰い生活費にも充て込んだ。
何時しか童顔の学生らしさも消えうせ、高田の馬場の街角で、肩で風切る私が居た。
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