
人生足跡・・・少年期・・・(5)差別問題初めて知った!
|Posted:2012/06/24 23:47|Category : 人生足跡|
中学入学時に少し疑問を感じた事がある。父親の職業欄に何故か時計卸商と書いて有る。
母親に尋ねると、父親と話した結果職業はこれで良いのだと、訳の分からない説明である。
少しは手伝いも減って行くのかと思いきや、中学入学しても丁稚家業は継続していた。
殆ど大阪行き、週3回程の往復で人目を避けながら近鉄奈良駅までそっと行く、この通りは通学路。
中学へ行ってもあまり友達を作らない御蔭か、私の姿を見て、知る人も少ない様だ、これが助かった!
出来る限り夕方6時頃の電車に乗り、帰宅は10時頃、これは我が家では当たり前である。
中学生の思い出はマラソンが得意な事、運動会でたまたま長距離レースに出た折、殆ど1着。
陸上の教師に部活への参加を促されるが、所属は柔道部、大会だけ出る事を承諾した。
市民体育大会で初めて学校の代表に選ばれ、確か一条高校のグランドで走ったと記憶する。
大会では残念ながら2位、それでも教師は喜んでくれた、自信が付いて冬の耐寒マラソン、
卒業まで殆ど3位以内に入って居た事を思い出す、陸上部の誘いはそれ以降も断っていた。
理由は練習時間、陸上部は何時も5時近くまでやって居る、私には家の仕事が待ってた。
その点、柔道部は結構いい加減、適当な時間でも帰宅できる。
中学2年生の頃か、何故か大阪行きがプッツリ途絶え何時しか奈良市内の仕事が増えて来る。
当時大阪の工場を閉鎖し、仕事を奈良に移した様だ、縫製と材料の仕入は大阪のままで有る。
製造は殆ど奈良に変更、京終を中心に旧村に沢山靴を作って居る集落が有る。
当時10軒ほど下請けを持っていた様だ、大阪で縫製した皮製品、木型を届け製造を依頼する。
こうなれば周5回の丁稚家業は当り前、自転車に乗りそれぞれの村々へ材料を配達・回収して行く。
何時だったか、中学生の2年生終わり頃、噂が私の耳に飛び込んでくる、どうやらあいつは部落らしい。
当初は何かは解らない、学校での噂を母親に尋ねてみた、この地方は周囲に部落が点在し、
差別問題が多いらしい、事細やかに説明してくれるのだが、理解するには結構時間を要すが解らない!
集落の子供達結構腕白でこの道を学校まで通う友達はここを避け遠回りして自転車で通っている。
私と言えばこの村では結構歓迎されてるみたい、親父の仕事の屋号が「千鳥商事」とか、
「千鳥のボン」と呼ばれ、私にいたずらする子供も居なかった、何処の家でも大事にされた事思い出す。
私が配達途中同級生が私を見る事が多かったそうである、彼はこの集落を通り抜け通学していた。
何時も虐められ、半ば恐怖を抱いた事を語ってくれた、私と言えば虐められるより可愛がられる、
それがこの噂の基らしい、職業差別とはまた違う根が深い事を晩年察するのだが、
それ以上は知りたくも無い。
中学3年生の頃か、私の趣味が鉱石ラジオ。専門書を読み部品を購入、夜遅くまで組み立てる。
なんでも興味を持つと熱中してしまう、ついには無線をやって見る、屋根にはアンテナを乗せ、
半田コテ、ラジオペンチ、少しずつ道具も増え、小銭を貯めたおかげか、結構購入した事思い出す。
夢中のあまり仕事もそこそこ、やがてこれが親父の雷に火を付けた!
鳩小屋と同じく、屋根の上のアンテナは何処かへ吹っ飛んで跡形も無い、
有る日親父に聞かれた事が有る、私の道具や部品を見て何処からお金が出て来たかと聞かれるが、
説明するのも面倒臭い、何時しか通帳は取り上げられ、其れからの私、貯金する事辞めにした。
父親の仕事も、この頃が苦しかった様である、何時しか私の郵便貯金は残高ゼロ!
母親に尋ねると少し貸して欲しいとか、どうやら父親の依頼だたそうな、
死ぬまで貯金なんかするもんか、幼心に誓いを掛け、これは今でも続いている。
中学時代の思い出はあまり良い思い出も無く、この頃から怒られることにも慣れて来る。
居直りなのか、早い話、図太く成って行く自分が居た。
友達もだんだん悪ガキと付き合う事も多くなり、夜遅くまで映画鑑賞、これが又楽しかった!
楽しみを思い出す事も少なく、こうして中学時代は過ぎて行く。
母親に尋ねると、父親と話した結果職業はこれで良いのだと、訳の分からない説明である。
少しは手伝いも減って行くのかと思いきや、中学入学しても丁稚家業は継続していた。
殆ど大阪行き、週3回程の往復で人目を避けながら近鉄奈良駅までそっと行く、この通りは通学路。
中学へ行ってもあまり友達を作らない御蔭か、私の姿を見て、知る人も少ない様だ、これが助かった!
出来る限り夕方6時頃の電車に乗り、帰宅は10時頃、これは我が家では当たり前である。
中学生の思い出はマラソンが得意な事、運動会でたまたま長距離レースに出た折、殆ど1着。
陸上の教師に部活への参加を促されるが、所属は柔道部、大会だけ出る事を承諾した。
市民体育大会で初めて学校の代表に選ばれ、確か一条高校のグランドで走ったと記憶する。
大会では残念ながら2位、それでも教師は喜んでくれた、自信が付いて冬の耐寒マラソン、
卒業まで殆ど3位以内に入って居た事を思い出す、陸上部の誘いはそれ以降も断っていた。
理由は練習時間、陸上部は何時も5時近くまでやって居る、私には家の仕事が待ってた。
その点、柔道部は結構いい加減、適当な時間でも帰宅できる。
中学2年生の頃か、何故か大阪行きがプッツリ途絶え何時しか奈良市内の仕事が増えて来る。
当時大阪の工場を閉鎖し、仕事を奈良に移した様だ、縫製と材料の仕入は大阪のままで有る。
製造は殆ど奈良に変更、京終を中心に旧村に沢山靴を作って居る集落が有る。
当時10軒ほど下請けを持っていた様だ、大阪で縫製した皮製品、木型を届け製造を依頼する。
こうなれば周5回の丁稚家業は当り前、自転車に乗りそれぞれの村々へ材料を配達・回収して行く。
何時だったか、中学生の2年生終わり頃、噂が私の耳に飛び込んでくる、どうやらあいつは部落らしい。
当初は何かは解らない、学校での噂を母親に尋ねてみた、この地方は周囲に部落が点在し、
差別問題が多いらしい、事細やかに説明してくれるのだが、理解するには結構時間を要すが解らない!
集落の子供達結構腕白でこの道を学校まで通う友達はここを避け遠回りして自転車で通っている。
私と言えばこの村では結構歓迎されてるみたい、親父の仕事の屋号が「千鳥商事」とか、
「千鳥のボン」と呼ばれ、私にいたずらする子供も居なかった、何処の家でも大事にされた事思い出す。
私が配達途中同級生が私を見る事が多かったそうである、彼はこの集落を通り抜け通学していた。
何時も虐められ、半ば恐怖を抱いた事を語ってくれた、私と言えば虐められるより可愛がられる、
それがこの噂の基らしい、職業差別とはまた違う根が深い事を晩年察するのだが、
それ以上は知りたくも無い。
中学3年生の頃か、私の趣味が鉱石ラジオ。専門書を読み部品を購入、夜遅くまで組み立てる。
なんでも興味を持つと熱中してしまう、ついには無線をやって見る、屋根にはアンテナを乗せ、
半田コテ、ラジオペンチ、少しずつ道具も増え、小銭を貯めたおかげか、結構購入した事思い出す。
夢中のあまり仕事もそこそこ、やがてこれが親父の雷に火を付けた!
鳩小屋と同じく、屋根の上のアンテナは何処かへ吹っ飛んで跡形も無い、
有る日親父に聞かれた事が有る、私の道具や部品を見て何処からお金が出て来たかと聞かれるが、
説明するのも面倒臭い、何時しか通帳は取り上げられ、其れからの私、貯金する事辞めにした。
父親の仕事も、この頃が苦しかった様である、何時しか私の郵便貯金は残高ゼロ!
母親に尋ねると少し貸して欲しいとか、どうやら父親の依頼だたそうな、
死ぬまで貯金なんかするもんか、幼心に誓いを掛け、これは今でも続いている。
中学時代の思い出はあまり良い思い出も無く、この頃から怒られることにも慣れて来る。
居直りなのか、早い話、図太く成って行く自分が居た。
友達もだんだん悪ガキと付き合う事も多くなり、夜遅くまで映画鑑賞、これが又楽しかった!
楽しみを思い出す事も少なく、こうして中学時代は過ぎて行く。
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