
人生足跡・・・青春期・・・(1)高校生には成ったけど・・・
|Posted:2012/07/12 15:13|Category : 人生足跡|
部活は柔道部継続中、そして新たに写真部へ参加する、自宅に居ても趣味は尽く潰される。
中学時代に小遣で小さなカメラを買った事も有る、フイルムはたしか小さな16mmか、
35mmのカメラは高価で私には持つことさえも不可能、但し上の姉は良いカメラを持っていた。
確か短大に上がった頃新品で買って貰った様だ、私には貸してくれなかった記憶が有る。
当時カメラは2台、最初のカメラは玩具のミゼット、フイルムは8mmだったか、良く撮れた。
このカメラ、当時カバヤの景品、日の丸の4辺カードを集め、何十枚かカードを集めやっとゲット。
お金を出せば買えた気もするが、今にすればカバヤの飴代金の方が割高だったかも知れない。
そしてスタートカメラ、これも今にすれば玩具の類、これは小遣いで購入し夢中で撮った事を思い出す。
室生寺や奈良公園、色んな場所で一人で撮影しては三条通りのカメラ店に現像等に出しに行く。
ここの御主人、玩具カメラでも親切丁寧に露出等詳しく説明してくれ、写真技術を教わった。
懐かしく思うが今この店は無い。優しかった御夫婦に逢って見たいと今も思うのだが。
何時しか自分でも現像したい、中学生の頃の思いが高校進学と共に芽生えて来ての入部と成る。
この頃は悪ガキと少し距離を置かねばと自分なりにも解っていた、そして逃避の場所には最適だった。
最初の頃は現像の楽しみ、焼き増し等 不思議な世界の遭遇でのめり込んで行くのだが何か物足りない。
部員は皆おとなしく綺麗事ばかりの会話とカメラの新製品の事ばかり、さすがに嫌になる自分が居た。
ライカのレンズが良いとか、ニコンも良いとか、さすが金持ちだ、私には付いて行けそうに無い。
私のカメラは蛇腹カメラ、親父の仕入先の社長に借りたまま、結構長く使って居た記憶が有る、
そう言えば、このカメラ何時返したのか今にしても思い出せない。
何時しか部活からも遠ざかり、柔道部の練習も休みがち、映画館へ通う回数が増えて行く。
この頃一世を風靡したのが日活映画、赤木 圭一郎・石原裕次郎、自分がドンドン変わって行く。
ズボンはスリムでポケット無し、学ランの下は白いポロシャツ、胸にはペンダントをぶら下げる。
通学鞄は持たなくて、本はベルトで十文字に括りつけ肩に掛けて当時恰好だけは出来上がる。
冬は絹の白いマフラー、学ランの襟からチョット出し、カッコつけては繁華街へ飛び出していく、
この頃は生活指導の教師から結構注意を促されるが無視する事が多かった。
私だけでは無い、この頃のはみだし高校生、すべて日活映画の影響を受けて居たのだろう。
喧嘩は唯もので無い、飛び出しナイフは当たり前、ついでに自転車のチェーンも隠し持ち、
持っているだけだが、最悪の時しか使わない、すべて腕次第、良い時代で有った事を思い出す。
部活は何時しかバスケット部へ、好きで入部したわけでは無いが悪ガキの誘い、私に近づく目的か、
マネージャーが居ないからとか勧められ、暇だから入部する。当然部活が終えれば繁華街へと繰り出す。
この頃は良く食べた、ラーメン屋・お好み・回転焼き、ぜんざい、毎日梯子で悪ガキ通りを帰って行く。
他校生達と遭遇するが私達を見ると遠ざかる、たかられるのが怖いのか、寄り付かない。
そう言えば、昼食の弁当は何時も授業中、10時頃には食べ終える、捕まった事も無い。
当時学内に食堂が新設され、女子生徒達結構ここを利用する、弁当は持参して来るが食べる事も無く、
殆ど私達に周って来る、ほのぼのとした青春時代の初恋もこの頃か、可愛かった彼女を懐かしく思い出す。
遊びも変わって来た、このグループの二人が単車を持っていた、当時我が家には自転車にエンジンを付け、
50ccのモーター付自転車が有った、これは私の仕事用、配達などで多用、勿論免許も持ってない。
雨が降ればモーターは空回り、自転車のリムに乾いた砂を被せどうにか乗りまわしていた事が懐かしい。
単車は欲しいのだが、買って呉れ無い事は解って居る、ここはおとなしい友達の単車を借りて乗りまわす。
乗りなれて来るとこれがドンドンエスカレート、俗に言うカミナリ族のスタートである。
自宅前には毎夜誘いがやって来る、マフラーを改造、エンジンの周りにアルミの洗濯バサミを取りつける、
このアルミの洗濯バサミは放熱効果抜群、ついでにマフラーの中にゴムのチュウブを入れ音響効果抜群。
親父の居ない時は夜遅くまで自宅前で単車を触って居た、凝り性の私、なんでも夢中に成って行く。
高校2年の頃か、橿原で免許を取得、結構ズサンな試験で実地試験もいい加減、1発で取得する。
単車にのめり込むと夜通し走る事も有る、今の暴走族とは少し違うがやった事はもっとひどい!
これ以上の思い出は書くに忍びなく省略する、家内娘達は知って居るのだが、書くことには不賛成!
お金が無い、単車に乗る時の必需品はゴムホース、首に巻き付け適当な車からガソリンを拝借する、
これは結構熟練しないとガソリンを飲み込んでしまう、これは私の得意だが、飲み込んだ事は一度も無い。
阪奈道路は料金払った記憶も無く、単車に腹ばいに乗り飛ばして行く、当時の流行りである。
この後に、友達の単車はトラックに激突大事故を起こす、両膝からは白い骨が丸見えだ!
その頃か、日活の赤城圭一郎も撮影所でゴーカートで激突あえなく亡くなった。
その後友人は車椅子、若さの無謀時代も終焉、単車から少しずつ遠ざかて行く自分がそこに居た。
中学時代に小遣で小さなカメラを買った事も有る、フイルムはたしか小さな16mmか、
35mmのカメラは高価で私には持つことさえも不可能、但し上の姉は良いカメラを持っていた。
確か短大に上がった頃新品で買って貰った様だ、私には貸してくれなかった記憶が有る。
当時カメラは2台、最初のカメラは玩具のミゼット、フイルムは8mmだったか、良く撮れた。
このカメラ、当時カバヤの景品、日の丸の4辺カードを集め、何十枚かカードを集めやっとゲット。
お金を出せば買えた気もするが、今にすればカバヤの飴代金の方が割高だったかも知れない。
そしてスタートカメラ、これも今にすれば玩具の類、これは小遣いで購入し夢中で撮った事を思い出す。
室生寺や奈良公園、色んな場所で一人で撮影しては三条通りのカメラ店に現像等に出しに行く。
ここの御主人、玩具カメラでも親切丁寧に露出等詳しく説明してくれ、写真技術を教わった。
懐かしく思うが今この店は無い。優しかった御夫婦に逢って見たいと今も思うのだが。
何時しか自分でも現像したい、中学生の頃の思いが高校進学と共に芽生えて来ての入部と成る。
この頃は悪ガキと少し距離を置かねばと自分なりにも解っていた、そして逃避の場所には最適だった。
最初の頃は現像の楽しみ、焼き増し等 不思議な世界の遭遇でのめり込んで行くのだが何か物足りない。
部員は皆おとなしく綺麗事ばかりの会話とカメラの新製品の事ばかり、さすがに嫌になる自分が居た。
ライカのレンズが良いとか、ニコンも良いとか、さすが金持ちだ、私には付いて行けそうに無い。
私のカメラは蛇腹カメラ、親父の仕入先の社長に借りたまま、結構長く使って居た記憶が有る、
そう言えば、このカメラ何時返したのか今にしても思い出せない。
何時しか部活からも遠ざかり、柔道部の練習も休みがち、映画館へ通う回数が増えて行く。
この頃一世を風靡したのが日活映画、赤木 圭一郎・石原裕次郎、自分がドンドン変わって行く。
ズボンはスリムでポケット無し、学ランの下は白いポロシャツ、胸にはペンダントをぶら下げる。
通学鞄は持たなくて、本はベルトで十文字に括りつけ肩に掛けて当時恰好だけは出来上がる。
冬は絹の白いマフラー、学ランの襟からチョット出し、カッコつけては繁華街へ飛び出していく、
この頃は生活指導の教師から結構注意を促されるが無視する事が多かった。
私だけでは無い、この頃のはみだし高校生、すべて日活映画の影響を受けて居たのだろう。
喧嘩は唯もので無い、飛び出しナイフは当たり前、ついでに自転車のチェーンも隠し持ち、
持っているだけだが、最悪の時しか使わない、すべて腕次第、良い時代で有った事を思い出す。
部活は何時しかバスケット部へ、好きで入部したわけでは無いが悪ガキの誘い、私に近づく目的か、
マネージャーが居ないからとか勧められ、暇だから入部する。当然部活が終えれば繁華街へと繰り出す。
この頃は良く食べた、ラーメン屋・お好み・回転焼き、ぜんざい、毎日梯子で悪ガキ通りを帰って行く。
他校生達と遭遇するが私達を見ると遠ざかる、たかられるのが怖いのか、寄り付かない。
そう言えば、昼食の弁当は何時も授業中、10時頃には食べ終える、捕まった事も無い。
当時学内に食堂が新設され、女子生徒達結構ここを利用する、弁当は持参して来るが食べる事も無く、
殆ど私達に周って来る、ほのぼのとした青春時代の初恋もこの頃か、可愛かった彼女を懐かしく思い出す。
遊びも変わって来た、このグループの二人が単車を持っていた、当時我が家には自転車にエンジンを付け、
50ccのモーター付自転車が有った、これは私の仕事用、配達などで多用、勿論免許も持ってない。
雨が降ればモーターは空回り、自転車のリムに乾いた砂を被せどうにか乗りまわしていた事が懐かしい。
単車は欲しいのだが、買って呉れ無い事は解って居る、ここはおとなしい友達の単車を借りて乗りまわす。
乗りなれて来るとこれがドンドンエスカレート、俗に言うカミナリ族のスタートである。
自宅前には毎夜誘いがやって来る、マフラーを改造、エンジンの周りにアルミの洗濯バサミを取りつける、
このアルミの洗濯バサミは放熱効果抜群、ついでにマフラーの中にゴムのチュウブを入れ音響効果抜群。
親父の居ない時は夜遅くまで自宅前で単車を触って居た、凝り性の私、なんでも夢中に成って行く。
高校2年の頃か、橿原で免許を取得、結構ズサンな試験で実地試験もいい加減、1発で取得する。
単車にのめり込むと夜通し走る事も有る、今の暴走族とは少し違うがやった事はもっとひどい!
これ以上の思い出は書くに忍びなく省略する、家内娘達は知って居るのだが、書くことには不賛成!
お金が無い、単車に乗る時の必需品はゴムホース、首に巻き付け適当な車からガソリンを拝借する、
これは結構熟練しないとガソリンを飲み込んでしまう、これは私の得意だが、飲み込んだ事は一度も無い。
阪奈道路は料金払った記憶も無く、単車に腹ばいに乗り飛ばして行く、当時の流行りである。
この後に、友達の単車はトラックに激突大事故を起こす、両膝からは白い骨が丸見えだ!
その頃か、日活の赤城圭一郎も撮影所でゴーカートで激突あえなく亡くなった。
その後友人は車椅子、若さの無謀時代も終焉、単車から少しずつ遠ざかて行く自分がそこに居た。
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