
人生足跡・・・幼少期(1)・・・中国残留孤児になってたかも・・・
|Posted:2012/03/31 14:29|Category : 人生足跡|
良く聞かれる・・・・あんたの故郷は・・・
面倒だから、いつも・・・満州馬賊の落とし子だ!と言っている・・・妾の子では無いけれど・・・
生まれは満州の哈爾濱(ハルピン)、現在の中国黒竜江省、戦時中の昭和19年1月の寒い時期である。
4人兄弟の末っ子・・・男は私だけ・・・早い話が長男だ!
現地では養豚業を営んでいたそうな・・・あの時代・・・新天地へと、我も我もと開拓団へ・・・親父の本業は
時計店・・・・
和歌山の時計店を閉鎖して・・・一攫千金・・・夢見て、意気揚々と旅立ったそうな!
親父も5人兄弟の末っ子で、狭い和歌山では、先が知れてる・・・との思いが、そうさせたらしい・・・・
いい時もつかの間、戦況刻々変化て、、夢はもろくも崩れ去り、親父は徴兵、残された家族の身近には・・・
ロスケ(ソ連兵)がマンドリン銃を乱射して家の端まで来たそうな・・・・
気丈な母はその前に、我が家で働く満人に、それぞれ黒豚・家財すべてを配し・・・逃げ道を画策してたらしい・・・・
几帳面な母親は、当時の記録を黒い手帳に、書いている。家はこの人、黒豚10頭この人に、黒豚5頭はこの人に、
結構早めに考えていたそうな
我が家の満人が、子供4人では逃げられない、私が育てましょうと言ったそうな・・・当時私は1歳、
私か姉のどちらかを預けなさいと・・・・何なら二人とも・・・・
気丈で頼もしい母親は、子供は一人も残さない・・・・!
私をリュックに詰め込んで、腹には二つ上の姉をくくりつけ、長女、次女にはリュックを担がせ、母親と姉妹の両手首に・・・それぞれ布を結びつけ、野を超え、川を横切って・・・どうにか満人の誘導で、逃げ切ったらしい。
道中・・・川で子供を流されて、諦める人達・・・・有る人は乳飲み子達を、満人に引き渡し逃げ帰った人も多かったそうな・・・・悲惨な状景が、母の言葉から出る度に・・・・今でも私の脳裏から、離れ無い・・・
逃げ遅れた、女性達はロスケや八路軍に捕まり・・・男はその場で銃殺に、そして、子供達は散りじりに・・・
御袋に一度ゆっくり聞いたことが有る、どうやって逃げれたん・・・・私は師範学校でマラソンなアー・・・
人に負けた事無かったで・・・足は至って速いんや・・・!
上手に逃がしてくれた満人に、いつも感謝を忘れぬ母・・・涙で語る母親の・・・一筋の涙を・・・
私は死ぬまで忘れない!
苦難の道程を経て昭和21年、母は博多港へ無事私達を連れ帰ったのである。・・・・感謝!
面倒だから、いつも・・・満州馬賊の落とし子だ!と言っている・・・妾の子では無いけれど・・・
生まれは満州の哈爾濱(ハルピン)、現在の中国黒竜江省、戦時中の昭和19年1月の寒い時期である。
4人兄弟の末っ子・・・男は私だけ・・・早い話が長男だ!
現地では養豚業を営んでいたそうな・・・あの時代・・・新天地へと、我も我もと開拓団へ・・・親父の本業は
時計店・・・・
和歌山の時計店を閉鎖して・・・一攫千金・・・夢見て、意気揚々と旅立ったそうな!
親父も5人兄弟の末っ子で、狭い和歌山では、先が知れてる・・・との思いが、そうさせたらしい・・・・
いい時もつかの間、戦況刻々変化て、、夢はもろくも崩れ去り、親父は徴兵、残された家族の身近には・・・
ロスケ(ソ連兵)がマンドリン銃を乱射して家の端まで来たそうな・・・・
気丈な母はその前に、我が家で働く満人に、それぞれ黒豚・家財すべてを配し・・・逃げ道を画策してたらしい・・・・
几帳面な母親は、当時の記録を黒い手帳に、書いている。家はこの人、黒豚10頭この人に、黒豚5頭はこの人に、
結構早めに考えていたそうな
我が家の満人が、子供4人では逃げられない、私が育てましょうと言ったそうな・・・当時私は1歳、
私か姉のどちらかを預けなさいと・・・・何なら二人とも・・・・
気丈で頼もしい母親は、子供は一人も残さない・・・・!
私をリュックに詰め込んで、腹には二つ上の姉をくくりつけ、長女、次女にはリュックを担がせ、母親と姉妹の両手首に・・・それぞれ布を結びつけ、野を超え、川を横切って・・・どうにか満人の誘導で、逃げ切ったらしい。
道中・・・川で子供を流されて、諦める人達・・・・有る人は乳飲み子達を、満人に引き渡し逃げ帰った人も多かったそうな・・・・悲惨な状景が、母の言葉から出る度に・・・・今でも私の脳裏から、離れ無い・・・
逃げ遅れた、女性達はロスケや八路軍に捕まり・・・男はその場で銃殺に、そして、子供達は散りじりに・・・
御袋に一度ゆっくり聞いたことが有る、どうやって逃げれたん・・・・私は師範学校でマラソンなアー・・・
人に負けた事無かったで・・・足は至って速いんや・・・!
上手に逃がしてくれた満人に、いつも感謝を忘れぬ母・・・涙で語る母親の・・・一筋の涙を・・・
私は死ぬまで忘れない!
苦難の道程を経て昭和21年、母は博多港へ無事私達を連れ帰ったのである。・・・・感謝!
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