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人生足跡・・・幼少期(3)父との遭遇・・・

途切れ途切れの記憶の中に、思い起こせば、何時しか私は郊外の、宍道湖の湖畔、浜乃木に住んでいる。

この地は元々、競馬場の跡地とか、楕円形の外周、馬の走るコース上に、規則正しく平屋が建っている。

中央には水田が広がり、田んぼと麦畑、中央を真っ直ぐな道が、向かいの床几山にと続いている。

この道は、松江市内の近道で、後の私の幼稚園通路にもなって行く、想い出の多い道でも有りました。

道端の左右に誘蛾燈が灯り、銀色に輝く麦畑、後々私の遊び場となるこの情景、今も忘れる事は無い。

昭和24年、私は5歳、小さいな1軒家、家財道具も少なく、広々と感じる、確か3部屋有ったと記憶する。

玄関から裏庭までは1直線、土間を通じ、玄関脇にリンゴの木、裏庭は殆ど畑が並んでる。

南京・スイカに・マクワ瓜・・・何故だか砂地で落花生、沢山食べた記憶が懐かしい!

当時、野菜は殆ど自家栽培、結構採れたの思い出す、横の通路は鶏小屋が、卵を取るのは私の役目。

なぜか自宅に水道無い、勿論風呂も御座いません。10軒置きに簡易水道の小屋が点在し、

夏の風呂は、タライ風呂、冬は向いのおじさんの、ドラム缶風呂を拝借し、結構お世話になりました。

ヤンチャな私は、この風呂大嫌い、一度掘り込まれれば、深過ぎて、逃げる事すら出来ません。

水汲みは子供達の当番で、時には、近くの山へシバを採りに行く、シバを取るより遊びが優先。

母親に良く叱られたものです、春夏秋冬・・・想い出の多いこの地が、今になっても懐かしい。

反面、幼いこの頃は、私にとって1番寂しい時代だったかも知れない、母は毎日仕事で不在。

当時、母親は日本生命の外務員・・・後々、聴かされた話では、学校の教師になりたかったと、

この当時・・・苦しい時代を生きるには、生保は必ず伸びるから、恩師の教えで勤めたそうな。

日中、母は仕事で不在、私と二つ違いの姉は託児所へ、上の姉は小学校、母の迎えは何時も夜遅く、

暗い部屋の片隅で、何時も一人で泣きながら母の迎えを待っている、微かに想う寂しい時代が有りました。

昭和25年8月・・・なぜか私は、松江駅前の防火槽に掘り込まれ、人参1本持たされ放置されている。

幼い頃は、この赤い人参が大好物だったとか、おやつ代わりに何時もかじって居たらしい!

姉達は母親、親戚と父親を迎える為にプラットホーム、ヤンチャナ私は、残念ながら置き去りに!

防火槽の中から見上げると、真っ黒な、髭もじゃの男が、突然私を抱き上げ、痛い髭を擦りつけて居る。

これが父親との最初の遭遇で有る。シベリアより帰国した父親と悟るまで、結構時間を要するので有る。

突然の出来事は、その後、小学校へ上がるまで、この父親に懐かない自分が有ったそうである。

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